思考の記録 Aug 2025
思考の記録 Aug 2025
2025年
- 思考の記録
思考の記録 Aug 2025
トンネルをこっちから掘っていっていたら、あっちから掘ってきた人の手と出会えた。そういう、幼少期の砂場の記憶がある人は多いと思いますが、あの不意に風穴の空く感じが、私の心の中で大人になってからも時々よみがえります。 “領域を横断する時”に。
たとえば、夏目漱石の『草枕』を読んだ時。長沢蘆雪、伊藤若冲、岩佐又兵衛、ジョン・エヴァレット・ミレーにウィリアム・ターナー——作中には実名の画家たちのほか、当時世間を騒がせた裸体画論争が主要トピックの一つとして出てきます。明治後期にあって主人公は西洋画家という設定で、このゴシップ的なギラつきが面白く、私は「草枕」を卒論に選びました(学部時代は文学研究でした)。その結果、(たぶん)水彩画家である主人公が、西洋文化受容にいったん挫折していたり、西洋画を文人画的に理解しようと頑張っていたりする様子が見えてきます。文学を美術史側から読むということを通して、文学と美術史の両方に、ある時代を生きていた人間の実感を重ねることになりました。
漫画研究を志した大学院では、漫画を(たとえば)絵画として見たら、どういう絵画ということになるのか? ということをずっと考えていました(ゴムのように伸び縮みして、汲めど尽きせぬ情報が織り込んであり、出たり入ったりでき、安くて場所をとる絵画、ということがわかりました)(この話は長くなるのでまた別の機会に)。
手前側に、いまでは自分の職業である現代美術があり、そして「メディア」が、「地域」が、「障害」や「まち」が、「新しい空間」が、あるいはもっといろいろな領域がトンネルの向こう側にあって、私はこっちから掘っていっていて、向こうから掘ってきている誰かと山の途中で出会えるのだと、……そういう確信が、なぜか私にはいつもあるのです。(金澤韻)